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精子の保存と人工授精の取り組み──野生生物保全センター実験室から
 └─2019/12/13

 多摩動物公園のウォッチングセンター2階には「野生生物保全センター実験室」があります。14年前につくられたこの実験室で現在、2名の職員が飼育下での繁殖をサポートするための調査や研究に取り組んでいます。

 飼育を担当する動物はいませんが、届けられる糞や血液などを預かり、必要に応じて検査をしています。たとえば、鳥類の性判別(過去の記事)、父親がわからないときの親子判定、妊娠や発情を見きわめるホルモン測定、そして今回ご紹介する精子の保存や人工授精に取り組んでいます。

 飼育下での繁殖は交尾による自然繁殖が理想ですが、相性などの問題で繁殖行動がうまくいかない場合や、動物の移動が難しく、理想どおりにならない場合も少なくありません。精子の保存や人工授精は、そのような動物の繁殖をサポートする技術のひとつです。

 保全センター実験室では、死亡個体の精巣から回収した精子や、麻酔下で電気刺激やカテーテル法などで回収した精子を −196℃の液体窒素タンクに冷凍保存しています(写真1)。この中には約20種類140サンプルの精子が凍結保存されており、将来、人工授精や卵や精子から個体をつくり出す技術が確立されたときに備えています。

 ただし、この精子の保存の取組みはまだまだ課題を抱えています。死亡個体には老衰や病気療養中の個体が多いため、採取された精液の性状がよくなかったり、種によって適した保存条件が異なったりするため、凍結保存しても精子の活力が悪く、人工授精に使えないことも多いのです。また、一般的には精液の採取や人工授精は麻酔をかけておこないますが、動物の体に負担がかかることも課題のひとつです。
 
写真1:液体窒素タンク
写真2:無麻酔で精液をメスの膣に挿入する

 チンパンジーの人工授精は、自然繁殖が難しい「デッキー」という野生で生まれて動物園にやって来たオスの子孫を残すことを目標に2016年から取り組んできました。麻酔下での人工授精は過去に一度だけ成功しました(過去の記事)。現在は「マリナ」というメスのチンパンジーをトレーニングし、無麻酔での人工授精に取り組んでいます(写真2)。デッキーはよく人に慣れていて、興奮すると射精物を出して手渡ししてくれるのですが、飼育担当者とデッキーの間に信頼関係があり、日々のトレーニングの成果があるからできる特殊な環境です(過去の記事)。

 デッキーの射精物が実験室に届いたら、まず射精物のpH、精液量、精子濃度、活力などを調べます。チンパンジーの射精物は採取時にはゼリー状になっていて、交尾後の精子の逆流や他の精子の侵入を防ぐ栓のような役割があると考えられています(写真3)。時間が経つとその一部分から精子を含む液が染み出てくるので、それを回収し性状検査をおこないます(写真4)。

 現在は、実験室で射精物の性状検査をした後、生理食塩水で希釈し、採取したその日のうちに無麻酔で人工授精もおこなっています。ヒト用の保存液で希釈し、冷凍保存したこともありますが、融解後の活力が著しく落ちてしまい、人工授精には使えないことがわかりました。2016年からの約3年間に100回以上の採精と性状検査を実施しましたが、日によって精子の状態に良し悪しがあり、季節的な変動や一定の傾向は見られていません。

写真3:ゼリー状の射精物
写真4:チンパンジーの精子の顕微鏡画像(400倍)

 無麻酔での人工授精の取り組みはまだ試行錯誤の繰り返しですが、着実に一歩ずつ前進しています。

〔多摩動物公園野生生物保全センター 下川優紀〕

(2019年12月13日)


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